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読書感想 ガンディーの言葉

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今こそ読みたいガンディーの言葉

マハートマー・ガンディー 著  古賀勝郎 訳
朝日新聞出版 2011年9月30日 第一版発行 
「抵抗するな・屈服するな」ガンディー語録を改題、再編集したもの。

はじめに

当ブログでは宇宙情報や精神世界を主な題材としているのですが、この本を取り上げた理由として、UFO現象や異星人との会見による内容には、たえず私たちの取り巻く社会問題が含まれているからです。

宇宙や精神世界というと、どこか現実離れした根拠のない話のようにとられがちですが、宇宙哲学における惑星と惑星との問題は、この地球上における国と国との外交、人種や宗教間、組織と組織、そして身近な個人の対人関係に置きかえることができます。

この本の副題からして現在においても意味深な言葉なので、ガンディーの活動を知る意味で貴重な資料となります。そのように捉えると、けっして昔話や空言ではない現実的な問題だということがわかります。

ガンディーは「インドを独立に導いた偉人」として世界中で知られており、1869年イギリス領インド帝国で生まれ、1948年11月30日、78歳でニューデリーにて死去しています。日本では明治時代始めから昭和にあたり、その間二つの世界大戦を経験しています。
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ですが、それは真の独立といえるのかどうかは疑問が残ります。というのは、20世紀前後において、各国は中央銀行制度を発足させているからです。各国の紙幣発行権は国際金融組織が行っており、その決済銀行にとって国の違い(各国の紙幣)は支店の違いほどにしかないからです。

南アフリカ共和国は1921年、インドは1935年、ちなみに日本ではヨーロッパ諸国のあといちはやく1882年に中央銀行(日本銀行)が開業しています。

またインド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国などは現在でもイギリス連邦の一部とされています。露骨な支配体制ではありませんが、元領地としての従属国としてみなされています。

この本の内容として、ガンディーの語録を項目別に収録されているのですが、その言葉が何時どのような状況で語られたのかが分からないので、彼の事跡としては把握できません。

ガンディーの活動に興味があるのならまず他の伝記を読み、その後の参考資料としてこの本は位置付けられると思います。巻末には詳細な年譜が収められているので、それとウィキペディア辞典を参考文献として感想を述べたいと思います。

ガンディーの背景について

まず初めにインド国の歴史や、ガンディー自身の家庭環境について知る必要があります。インド国は中世以来、ヨーロッパ諸国からの干渉をうけ、現在まで多難な被支配の処遇を経験しています。

彼はヒンドゥー教徒の家庭で生まれ、4人兄弟(姉妹)の末っ子として育ちました。ガンディー家はカースト(身分制度)における4階級第3身分(商製造業従事者)に属しており、けっして恵まれた環境で育ったわけではないようです。13歳で結婚し、16歳の時に子供がうまれ、その年父親が病死しています。

彼は10代のころから家庭をもち、その経済的負担を背負ってきたのです。この本の語録でガンディー自身領主側の奴隷だったことを告白しています。彼の言う奴隷とは、性的な関係を意味していると思われます。

19歳でイギリスに留学し、22歳で弁護士の資格を得てます。これはガンディーという人物を知るうえで重要な背景と言えるでしょう。彼はイギリス法曹界に所属しており、決してインド国側の人物ではなかったのです。

弁護士の職務には、刑事事件以外にも民事的要素として個人の人権や権利の保護も含まれています。社会的弱者を暴力から救済するのが本分なのです。

現在法律のパンフレットによれば、今の社会は王や聖職者が見えず、地主や事業主などの資本家が現れず、誰も支配者がいない時代とされています。簡単に言えば「我よし、相手よし」の対等な関係です。

それほど憲法や法律が「法の下平等」という崇高な精神で明文化されているに、弁護士ですら植民地政策に協力しており、体制内の一組織になりはてている現実を知ったのではないでしょうか。

ガンディーは法律家として当然それらのことを熟知していたのですが、彼自身の経済的依存と権力や名声などにより、被支配は国や民衆に有益であるという大義名分を信じたかったと想像できます。

ですがインド国内では大飢饉があいつぎ、多くの人民が飢餓や病気で犠牲になっていたことから、彼自身の精神的な葛藤があったのです。菜食・断食を行なうことにより身を律していたようです。

それは弁護士の資格を得たのち帰国し、国内の二か所において開業したようですが、うまくいかなかったことから国内事情を察することができます。

イギリス領・南アフリカ共和国にて
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24歳の時、ガンディーはインド人経営者の顧問弁護士として南アフリカ共和国に派遣されてます。その後22年間その地で在留インド人の差別撤廃に努めていたのです。領有国イギリス側の立場から在留インド人との取次役だったと想像できます。

彼の社会活動の原点は南アフリカ共和国で、インド国内ではありませんでした。そして、イギリス支配者側に協力せざるえなかったと推測できます。

それは下記の事柄から判断できます。

1899年・ガンディー30歳の時、原住民によるイギリス人排他のボーア戦争が起こりました。その時彼は、インド人による野戦衛生隊を編成しイギリス側に協力しています。

34歳の時、ヨハネスバーグで弁護士事務所を開業。「インディアン・オピニオン」誌を発刊し、自主独立のための実験農場を建設。

37歳の時、原住民ズールー族の反乱では自らイギリス軍に従事。

そして、インド人移民の制限や、指紋登録の強制にかんする「トランスバール法」に反対し、非暴力抵抗運動をおこし、2か月の懲役に服しています。このころからガンディーは民族独立のための社会運動家になり、共同農園の運営を始めています。

一般に法律家が起訴され刑務所に送られる事態は異常であり、彼は異端とみなされていたようです。

その後1914年・第一次世界大戦勃発において、ガンディーはイギリス植民地軍への志願をインド人に呼びかけ、100万人規模の兵士を送りだしていたにもかかわらず、度重なる抵抗運動で何度も投獄されていることから、イギリス法曹界からも排他されたのではないかと想像できます。

彼がインドに帰国したのはこの時で、すでに46歳になっていました。

インド国内での活動について
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1919年・第一次世界大戦終了後、治安維持を目的とする「ローラット法」が成立し、これに反対する全国的なストライキを指導。

主権移譲の約束が守られず、このときから対英非協力を提唱するようになる。「国産品の愛用」「手紡ぎ・手織り」をとなえ、非暴力による自治要求運動を民衆に指導。

インド民衆が植民地支配にたいして暴動になり、ガンディーは逮捕され禁固6年の刑を受ける。病気のため2年後に釈放。その後、イギリスに対し完全自治を要求。

納税拒否・不服従運動を民衆に指揮、何度も逮捕、投獄される。断食をくりかえし、危篤状態になり釈放。

1939年・大二次世界大戦勃発。この時ガンディーはイギリス政府に対し、インド人による人民政府樹立を条件に非暴力的協力を表明。国防にかんしては非暴力に固執しないと宣言。

大衆が暴徒化し、イギリス軍はこれに対し大弾圧をおこなう。1943年、ガンディーは再び投獄され、翌年断食による病気で釈放。ひきつづきイギリスに主権移譲を要求しつづける。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が対立し紛争が激化。

1948年、ガンディーはヒンドゥー教徒に射殺される。享年79歳。

翌年、インド共和国憲法公布。

上記の事柄がインド帰国後のおもな活動ですが、独立国へ導くため命がけで取り組んでいたことが分かります。この姿が一般に知られるガンディーであり、イギリス側から完全に抜け出たように思われます。

ですが、インド国内のヒンドゥー教徒にとっては、たえず偽善的な人物として見られていたのかもしれません。イギリス側の対インド人担当者と映っていた部分もあるようです。

ヨーロッパ先進国にたよらず、自給自足できるような将来を模索していたのでしょう。このような考え方は現在でも途上国にあり、被支配された者がまず求めるのが経済的繁栄や権力ではなく、主権であり支配者なき自由であることがわかります。

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